おすすめ      2000/8/5徳島教会 「癒しと祈り」から

新約聖書 マルコ 1:32〜39

 マルコによる福音書1章32節の聖句に「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。」とあります。少し前の1章の21節には「安息日」とありますが、当時、イスラエルの人々の1日は、現代のように「日の出」から始まるのではなく、「日の入り」から始まりました。当時、「安息日には病をいやしてはならない」(マルコ3:1以降)と、言われていたのです。安息日とは「7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」と十戒にあるように、神様を仰ぎ、休養をする日なのです。

 しかし、安息日に病人を治療してはいけないというのは、イスラエルの宗教的指導者たちの解釈であって、いわゆる「言い伝え」です。イエス様が同じマルコ福音書で言われるように「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」と言われているとおりです。様々な多くの苦しみは、神様から来るのではなく、人が招くのです。まさしく人災です。手っ取り早く言えば、苦しみのほかに、苦しみを嫌う「人々の目」からくる苦しみがあるのです。

 このようにして、私達人間社会の苦しみは、いつも2重になります。たとえば障害者は実際の障害のほかに、障害を見る人々の目、扱い方、見方というものにも苦しめられます。まさに、人間の作ったものが、人を苦しめるのです。

 イエス様は、この様な、ものから私たちを自由へと解放してくださいます。第2コリント3章の17節には「主の霊のおられるところに自由があります。」とイエスの弟子パウロは言います。この自由は神のあらわれ、愛です。

 イエス様は人を愛することが第1の戒めと考えました。安息日に病気を治療し、人々を苦しみから救うのは愛の行為であると考えました。ということは私たちも、病気のままでイエス様のもとに行き、受け入れていただけるのです。

 教会の中でも、町の中でも、家の中でも、どこでもイエス様の働きはあります。私達は、これを希望し期待してよいのです。

あなたは病気だから清められてから私のもとに来なさいとも言われないのです。

キリスト・イエスは私たちの様々な重荷から自由にしてくださいます。感謝です。安息日の主とは、このような方なのです。