メッセージの更新が、またまた遅くなってしまいました。本当に申し訳ございません。皆様の憐れみに、ただただおすがり致します。ああ、イエス様、この弱い牧師をお助け下さい!
◆無くならない「戦争」
毎日のように悲しい事件のニュースが私たちの耳に入ってきています。その悲しいニュースの中に「戦争」があります。人は皆、本当は平和に暮らしたいと願っている。あなたも私も、この人もあの人も、本当は幸せに平和に暮らしたい、そう思っている。ああ、それなのに、人類の歴史から、そして家庭から、職場から、地域から、争いは一向に無くならない! なぜなのだろう。一体どうしたらいいのだろう。本当の平和とは、どういうものなのだろう、といろいろ考えてしまいます。
◆衝撃的な十字架の出来事
ところで新約聖書には、イエス・キリストが十字架に張り付けにされる衝撃的な場面が出てきます。
「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王』と書いた札も掲げてあった。」(ルカによる福音書23章32〜38節)
◆「父よ、彼らをお赦しください」
イエス・キリストというお方が、どのような恵みに満ちた生涯を送られたのか──そのことが書いてあるのが新約聖書です。病人をいやし、貧しい人々に救いの教えを説き、間違いを犯している人を愛をもって正しい道に導かれた生涯でした。しかし、イエス・キリストは指導者層の人々の反感をかい、とうとう十字架刑に処せられてしまったのです。
しかし、本当に驚くべきことには、何も悪い事をしていないのに十字架に張り付けにされ、痛みと恥の中でさらし者にされているイエス・キリスト──その口から出た言葉は、なんと「お前ら〜、呪い殺してやる〜!」というような呪いの言葉ではありませんでした。呪いどころか、その口をついて出た言葉は、今イエスを馬鹿にし、釘付けにし、さらし者にしている人々のために、父なる神に赦しを求める嘆願の祈りでした。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。
◆私たちに本当に必要なもの!
戦争が必要かどうかということは、私には分かりません。しかし、今日も誰もが自分のことで必死になっています。自分の国、自分の財産、自分の家、自分の地位、自分の名誉、自分のプライド、自分の命・・・。そしてそこに争いが生まれる。
イエス・キリストはそういう生き方ではなく、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。本当に私たちに必要なのは、イエス・キリストの十字架に見られるこの生き様(死に様)ではないでしょうか。自分に敵対してくる人々に、どこまでも注がれるキリストの愛と赦し。
「そんなこと、できるはずがない!」そんな声が聞こえてきそうです。まさにその通り! そんなこと、できるはずがありません。あなたもできないし、私にもできません。人間の力では、到底できないことです。
しかし、キリストは言われます。「人間にできないことも、神にはできる」。神は今も確かに生きておられます。人の心を創り換える力をお持ちです。真心込めて、ご一緒に祈ろうではありませんか。そしてまず、あなたの、私の心を、平和の源なるキリストに捧げようではありませんか。
〈祈り〉
神様、愛せません。愛せない私を、キリストの十字架のゆえに赦して下さい。どうぞ、平和の源なるイエス様、私の心をご支配下さり、愛する者にして下さい。イエスの聖名によって祈ります。アーメン