まず、虫である。
ジャナクプル鉄道の旅が上手くいくかどうかは虫とのおつき合いをどうするかで決まる。
ジャナクプル鉄道はネパール東部のタライ平原にある。同地は気候帯で言うと亜熱帯に属する。水田や畑地が目立つが、かつては亜熱帯林に覆われていた場所である。現在でもその名残りが随所にある緑多い場所だ。
自然環境が豊かとなると当然のことながらそこは虫の楽国である。
昼間はともかく、夜の虫の数の多さには閉口した。
当方、四国の山育ちで虫そのものには抵抗感はないと思っていた。
しかし、ジャナクプルの夜、ほのかに輝く、電灯の周りにワンサと群がる虫を見たとき・・・。
ワサワサ飛んでいるだけではない、地面から柱にいたるまでびっしり張り付いた虫の大群には・・・、正直、ゾッとした。
ジャナクプル市内の一等地にあるホテルRAMA(ラーマ)。オーナーに言わせると「インド大使も常宿にするエアコンディショナルもあるグッドサルビスのファイブスターの宿」だが、カトマンズのように競合するホテルがある訳でもなく、唯一「まとまなホテルらしい格好をした」というだけのホテルである。
カトマンズから10時間近くかけて、やっとたどり着いた時には日は暮れていた。
「3年前と変わらんな」と思いつつ宿帳に記入していると、裾を上げていた腕に痛みを感じた「痛ッ」。蚊である。頭上を見ると電灯の周りには幾重もの虫の大群。耳もとには日本でもお馴染みのブーンという独特の羽音がする。
「やべえ」いきなり刺された。この第一撃がのちのちの大変な騒ぎの幕開けであった。
3年前、初めてジャナクプルを訪れ、ジャナクプル鉄道の事務所へ夕刻出かけた時のことを思い出した。鉄道の現地マネージャーに翌日のスケジュールを聞きに言ったのだが、その日はやたら蒸し暑く、外でチャーでも飲みながらということになった。用意された椅子に座ってチャーをすすりながら、ふとマネージャーの方に目をやると・・・、なんと頭上に蚊柱ができているではないか。おそるおそる目を上に向けると自分の頭上にもどうやら蚊柱ができているようだ。首筋にチクリと痛みが走った。
思わずたたくと手のひらには潰れた蚊と真っ赤な血。
「この蚊はなんていう蚊ですか?」
「マラリア蚊・・・」
「へ?」
思わずチャーを吹き出しそうになった。
「ジョークだ。心配するな。刺されてもこの蚊はノープロブレムだ」マネージャーがニヤリと笑う。
「本当にマラリア蚊じゃないんだろうな?ガイドブックにはタライ平原の一部はマラリア汚染地域とあったぞ。何箇所か刺されたぞ」ホテルに帰ってから同行のネパール人の友人であるS君を問い詰めた。
「蚊の種類なんて知らないよ!マラリアはあるけど地元の人はほとんど大丈夫だっていうよ。日本にも蚊はいるでしょ!問題ないよ」
「蚊は蚊でもマラリア蚊ってマネージャーは言うたやないか!マラリアになったらどうするんじゃ」
「このごろはたまにしか聞かないよ。多分、ここの蚊は問題ないよ。マラリアになっても治らない病気じゃないし・・・・」
「あのな、治るとか治らないのレベルでないんじゃ。ここの蚊は安全なのか?やばいのか?が今は問題なんじゃ」
「多分、だいじょうぶ・・・・。もし、かかったら病院紹介するから」
「答えになっとらん」
この時は幸いにして痒いだけに終わった。カトマンズに帰って、知り合いの医師に聞くと「ま、たまには発病する人もいるみたいだけどジャナクプルあたりは大丈夫じゃないかな?」と言う。「タライじゃ珍しい病気でもないしね。危険な病気であることには変わりはないけど・・・まあ大丈夫でしょう」安心していいのかどうか良く分からない答えが返ってきた。
3年前の記憶は鮮明である。
「マットを貸してくれ。蚊取りマットを」まずホテルのマネージャーにお願いした。以前、宿泊した時に日本製の「蚊取りマット」がフロントにあったのを見ていた。「1個でいいか?なんなら2個持っていってもいいよ」とマネージャー。
「なんで2個いるのかねえ?」
前回、同行したS君が急にポカラに行くことになり、今回、当方と同行することになったG君に聞いた。
「悪い予感がしますね」G君は日本からメールでお願いしてあったこのホテルの予約を忘れていて、今日、飛び込みで部屋を確保していた。当方希望の、扇風機はありますが、トイレ、バス共用、お湯は出ませんという新館のまあまあ快適な部屋が取れなかった責任を感じているのか、顔が曇っている。
案内された部屋は一応ツインだが木のベッド、エアコン無し、風呂なしのRAMA旧館の一番安い部屋だった。
窓は金網が付いているが、その網目は明らかに虫除けには役に立ちそうにない鳥かごのような荒い網だった。
これなら駅前のゲストハウスと一緒だな。電灯にちらほら虫が舞っているが、そんなにいないのがせめての救いか。と思いつつベッドのシーツを見ると、なにやら点々がある。よく見ると小さな黒い虫に混じってその中に見なれた緑色の亀甲型の形が・・・・。
「虫ですね・・・・。なんだろうこの虫?」カトマンズ中心部生まれのカトマンズ育ちである都会人・G君は悲しいかなその虫がなんであるか気付いていなかった。「ちゃんとしておいてもらわないと・・・」いきなり手で払った。
「ちょっと待て」その時にはすでに遅かった。部屋に異臭がただよう。
「臭い!なんですかこれ?」
「あのな、それ、日本語で言うとカメムシじゃ。とんでもないことしやがって・・・」
カメムシ一族は聞くところによると世界中にいて甲虫類の中でも最大勢力を誇る一族であるそうだ。敵から身を守るために危険を察するとなんとも言えない臭いのある分泌物を放出するのであった・・・。
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