藤本飛曹長と3人の海鷲探索隊 左より斎藤、味口、藤本氏、池田の面々。取材を終えた後、藤本氏のお宅に面する斎灘の海をバックに撮影。ちょうど美しい夕日が沈むところだった。このあたりの海にはグラマンだの紫電改だのがたくさん沈んでいるという。(味口氏談) |
そもそも今回の愛媛県での「海鷲」探索、つまり旧海軍航空隊搭乗員個別取材なるものが提案されたのは、日頃より単機で旧海軍じいさんの訪問や戦友会までにも、のり込むツワモノ同士が、久々の会合を兼ねて、たまにはいっしょに取材してみようとのノリで実現れたものである。
教導機を務める地元「まっついこっつい」の味口会長。また、遠路千葉より飛来の池田飛曹長。そしてワタクシ、徳島MCの斎藤飛曹長の3機変態じゃなかった3機編隊という陣容だ。
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そのレストラン「スカイドリーム」は、国道56号線沿いに異様な風体をさらしていた。
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しかしながら、ゆうても本物である。 このレストランに搭乗するためには、隣接した空港ロビー?を経て乗り込まねばならない。池田飛曹長は、まるで秘宝館かパラダイスのようだと感激していた。 YS-11の周囲で写真を撮ったあと、結構搭乗気分で興味深く中に入った。機内にはキャビンアテンダントのおねえちゃんが「いらしゃいませ」と声をかけてくれたが、どう見てもスッチーに見えない。
茶髪・ルーズソックスのいかにもアルバイト丸出しのコギャルだ。 しかもなかなか、テッテーしてるのは水もコーヒーも紙コップだったこと。 もう我々三名にはうけること、うけること。
「いやあ、さすがは航空史にさん然と輝く松山だけのことはありまんな」。斎藤飛曹長が味口氏に意味ありげに言う。 「そんな、からかわないでくださいよ」。味口氏はテレ笑いを浮かべながら、えらいもんが出来よったというような顔である。 「どうせなら、松山航空隊ゆかりの地なんだから、一式陸攻を改造して『レストラン・中攻』なんてえのがよかったなあ」。 斎藤飛曹長が言うと、池田氏いわく、「ちょっと狭いけど、銀河を改造して『御食事どころ・梓』なんてのはどう?」などと提案したりする。 その後、『うどんの菊水三号店』だの『焼肉の非理法権天』だの、かなり海軍機マニアな会話がはずむ。 あげくのはてにはテーブルの上に、池田氏が持ってきた本物の航空眼鏡(彗星の操縦員から進呈された)だの、斎藤氏の海軍機写真だの、航空記録だのを並べ出陣前の盛り上がりはピークに達していた。 しかし、向こうで例の茶髪のスッチーが冷ややかな目で、こちらを見ていたことを私は見逃してはいない。 恐らく彼女らは、『また今日も、どこから来たんか知らんけれど、飛行機おたくのオヤジどもが来やがった。 どうでもいいけど、堪忍してほしいわ』と言いたげである。 そんな冷ややかな目も一向に気にしない我々は、充分フライト気分を堪能させて頂き、感動にむせいでいたのだった。 ・・・・んなわけ、ないわい! 写真説明 絶句しつつYS11を眺める池田氏、機種のあたりだけでも3箇所の切断跡があり、ガムテープのようなもので包み隠していた。指で押すとペコペコへこむのでビックリ。夜間はクリスマスツリーのように豆電球でライトアップされるが、どう見ても趣味が悪い・・・・。 |
私は四国四県の健在な搭乗員を随分調べたし、取材も重ねたが、なんといっても愛媛がダントツに搭乗員の数が多い。味口氏によると、全国組織『零戦搭乗員会』が出来たのは、それより前に発足していた『愛媛零戦搭乗員会』が音頭を取ったとのことで、ゼロ戦の搭乗員だけでも現在も約20名ほどの方が健在という驚くべき地域なのだ。 一県でこんな会があるのは、ここ愛媛と長野くらいなもんだ。
●宮本 大上飛曹(甲飛11期) 水上機操縦 二式水戦・強風(第二河和空)
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○ 余談1 池田兵曹長は、なおも一日余分に大洲市に残り、翌日は単機、梅林義輝上飛曹(甲飛10期・零戦 653空・601空S310)を取材した。 かなりの戦果があったそうで、近い将来スケビあたりに発表されるかもしれない。 ○ 余談2 宇和島を訪れた前日、あのハワイ沖での宇和島水産高校実習船の惨劇があり、地元では大騒ぎの様子だった。 一日も早い乗組員全員のふるさと・宇和島への帰還を祈りたい。 ○ 余談3 宇和島水産高校の話題で少し不謹慎かもしれないが、市内のあちらこちらで、日曜日にもかかわらず、事故のためか同校の学生を見かけた。 その紺の制服は、まるで江田島の海軍兵学校そっくりだった。 宇和島には今も旧海軍の息吹が感じられ、まさに海鷲の町という表現がぴったりな街なのだ。 |