今から20年ほど前、兵庫県加古川市と高砂市を結ぶ小さな私鉄・別府(べふ)鉄道があった。この鉄道は肥料会社が自社製品を発送するために敷設したものだったが、貨物列車の合間に古い気動車と客車でおまけのように旅客営業も行っていた。 僕がこの鉄道を知ったのは大学生になってからで、一度訪ねてからは病みつきとなり何度も足を運んだ。ぼろぼろの線路の上を機械式の気動車がゴトゴト走る。まるでタイムスリップしたかのような錯覚に陥る鉄道情景は何度行っても飽きないものだった。 この鉄道にはほろ苦い思い出もある。当時、ものすごく好きだった女の子を誘って訪ねた鉄道でもあるからだ。 自室の書架に溜め込んだファイルの中に黄ばみ、色褪せ始めた紙の表紙のついたクリアファイルが数十冊ある。学生の頃プリントした写真が保管されているのだが、特に分類している訳でもなく、テストプリントとか写真実習で提出に至らなかったBクラスの出来のプリントや、街で集めたパンフレットなんかが適当に放り込まれている。以前は、時たま見直していたものの、ここ数年は見ることもなく、仕事用の資料やインクジェットプリント用の大判の新しく増えるファイルに押されて隅の方に埋もれてしまっていた。 ちょっと考えることがあって、久しぶりに数冊引っぱり出しページをめくっていると別府鉄道の写真と、ほとんど真っ白状態のコンタクトプリントが現れた。こんなところに放り込んでいた。コンタクトプリントの中にはこの時にしか撮っていない彼女の姿があった。 何回、一緒に出かけただろう。けっこうあちこち行った記憶がある。でも、彼女の写真はこの小さなコマが並ぶプリントが唯一のものだ。カメラを持っていかなかった訳でもないのに、写していない。当然のことながらツーショットもない。彼女は写真が嫌いだったのだ。「太く写る」とか「写真を見られるのはイヤ、実物を見てれば十分でしょ」とか言って撮らせてくれなかった。従ってこのコンタクトプリントは彼女の承諾無しに望遠レンズを使って、線路の上で遊んでいるところをこっそり撮影したものだ。そうそう、あの時は露出計のないカメラを使っていて、チャンスとばかりカメラを向けたものの、あせって露出を合わせるのを忘れていた。何枚か撮ってる内に気づかれたが、何故かあの時は文句を言わなかった。ただ「プリントはしちゃダメ」と釘をさされた・・・。 普段はやさしいのに写真だけは頑なだった。現像したネガは露出オーバーで真っ黒。とてもプリント出来るものじゃなかった。「ダメ」と言われていたからプリントはしなかった。ルーペで見ると、近づくにつれ、顔が引きつっているのが見てとれた。最後のコマだけが「しかたないな」とでもいうかのように微笑んでいる。その笑顔が僕は大好きだった。 |
野口と別府港を結んでいた小さな気動車。この日の乗客は僕と彼女だけ。カップルが乗る事はめったにないと車掌に珍しがられた。 | |
彼女をダシに立ち入り禁止の車庫を見せてもらった。女の子が訪れる事がまず、ない場所だけに大歓迎された。 | |
車庫の中では黒光りする車輪が整備中だった。古い車輛を維持するために欠かせない作業だという。 | |
現役の鉄道とは思えないほど荒れ果てた構内。古い蒸気機関車の部品や、木造貨車が乱雑に置かれている不思議な空間。 | |
腐朽した枕木の上に敷かれたレールを貨車がバックで入ってくる。こんな撮影が可能だったのはここだけだった。 | |
帰りは別府港から山陽本線土山駅をつないでいた土山支線を走る混合列車に乗った。客車の前にあるタンク車を「お尻みたいだ」といったら彼女から睨まれた。 |